<評論>

    大島幸治:思想史研究者、博士(経済学)

大島 幸治(評論家)

  • 1954年 東京生まれ
  • 慶応義塾大学大学院経済学科研究科修士課程修了。
  • 2011年「アダム・スミスの道徳哲学と言語論」で慶大経済学博士。
  • 英国思想史・社会史専攻。
  • スコットランド啓蒙周辺の言語哲学、文法論、道徳哲学を研究分野とする。
  • 他にファッション文化社会論、身体論、現代アートなどを論じている。



<ヨシカワゴエモンの自然思想>

 ヨシカワゴエモンは、思想性の強い造形作家である。本質的にエコロジーの思想家であるといってもいいかもしれない。彼独特の立体イラストとも言うべきユーモラスで、実に人間的な昆虫、動物の造形を論じる前に、このことは指摘しておかねばなるまい。

 もちろんヨシカワゴエモンは、エコロジー問題について声高にあれこれ語りはしない。しかし彼が一貫して昆虫や爬虫類の造形にこだわって制作しつづけている原点に、少年がクワガタ捕りに夢中になるような「好きでたまらない」という気持がもちろんあるのだろうが、それ以上に、現代文明に対する鋭い批判が見えるからである。

 最近はゾウの造形が多くなったが、ヨシカワゴエモンは、きっと昆虫や爬虫類の形そのものが面白くてしかたがないのだろう。その上で、私たちが当然視して疑わない人間の「形」、行動様式、思考、文化、生活…etc.が、実は自然界では当たり前ではなく、例外的でむしろ異常なのかもしれないことに思い至ったのかもしれない。人間ばかりが、二足歩行し、異常に脳が肥大化し、その脳が生み出す「思考」に振り回されて、悩んで夜も眠れなかったり、人を妬み恨み、憎悪したり、支配したいと望むのである。私たちが獰猛、冷血、ヌルヌルで気持悪いといったイメージで嫌がっている爬虫類、とくにワニ、イグアナの中に、むしろ本能のみに支配されていることの単純さ、明快さ、愛すべき滑稽味がある。ヨシカワゴエモンが作り出すゾウやワニ、イグアナの造形に人間的なしぐさや表情を見出すとき、彼が人間理性の限界を見据えつつ、人間と他の動物種との垣根をそれほど意識していないことに気づかされるのだ。動物を擬人化するという単純な話ではない。人間と動物は、この地球の生態系に共生する不可欠な要素として同じ平面上の仲間としての共通性、類似性を持っているのだ。唯一、理性を有する存在として、人間が生態系のヒエラルキーの頂点に自らを位置づけるという傲慢さに対して、「ほら、私たちはこれほど似ているよ」と突きつけてくる感じだ。

 その意味でヨシカワゴエモンの創作活動に、自然を思い通りにねじ伏せ、支配しようとおごる人間の独善や攻撃性を風刺してやろうと情熱を感じずにはいられない。

 ヨシカワゴエモンは、弾力のあるスポンジを素材として扱ってきた過程で、おそらくは多大な修練を積み重ねて、きわめて人間的で柔らかいラインを生み出す超絶技巧を手に入れた。私は、ヨシカワゴエモンの動物が見せる実に人間的なボディーに魅了されてしまう。視覚的に人体らしく見えるためには、手足の長さ、太さに微妙に差異を生み出すことも必要で、そのバランスが大事。もちろんそれは解剖学上の真実を踏まえた上でデフォルメしなければならないのだが、ヨシカワゴエモンの解剖学を踏まえたと思われる鋭い観察眼と造形の独自の表現技法には括目せざるを得ない。

 弾力と反発力を持ったスポンジ素材を使いこなすことにより、ヨシカワゴエモンのユーモラスな動物の造形は、ある種の「鳥獣戯画」と化した。それは、中身のないパイプを折り曲げるとつぶれたり変形するのとちがって、人体という中身が詰まった立体が曲がったり、伸びたりする動きのフォルムにきわめて近い。これを再現した上で、デフォルメされ、カリカチュアライズされているのである。

 しかし、それは動物を擬人化して、面白く親しみやすいものにしただけではなく、逆に、人間の獰猛さ、危険性、攻撃性を突きつけ、糾弾する論理をはらんだものでもある。擬人化された動物は、「人間はオレたちを気持悪い、攻撃性がある、冷血だとか言うけれど、傲慢をきわめた人間の理性こそが、自然を破壊し、オレたちの権利を奪っているではないか」と言い出しそうに見えてくる。

 ヨシカワゴエモンの動物造形の思想性は現代という状況において抜き差しならない意義を持つと思うのだが、そのことをもう少し言及しておこう。

 新型コロナウイルス感染拡大という状況で、グローバル化した経済は崩壊してしまった。“Withコロナ”の時代では、経済活動のみならず社会活動すべてのデジタル化が進み、人と人との距離感が広がっていくだろう。すべてがデジタル情報と化した社会においては、ますます商品の使用価値よりもそれに付随するイメ-ジ(情報)の方が商品価値の優劣を決定する。しかしイメ-ジの差異があまりにも微分化されてしまうと、広告のコピ-が人気を博したとか、CFのタレントの魅力が商品流通のカギになるといった予測を超えた現象が起きる。もはや商品価値でも記号性の問題ですらない。ジャン・ボードリヤールはこれをノイズだと呼んだ。広告流通部門を掌握して大きな影響を与えるビジネスが、市場調査と統計通りの収益を上げようとするが、インターネットを介したビジネスは、アマゾンの売り上げが示すように、売れ筋上位90%を集めて総売り上げの60%にしかならず、実は数点単位のマイナーな需要で40%も占めるということが起こってくる。つまりノイズが占める影響力は大きいのである。
 ところがエコロジー概念は、一元的で絶対的な倫理の標榜であるからノイズが発生する余地を生みださない。というのも森林破壊や緑地の減少状況は航空写真などで明白だから、自然破壊に反対することには誰も異論はないからだ。しかし実際の経済は、経済と政治の利権がぶつかり合う世知辛い現場なのであって、こうした一元的で絶対的な倫理が支配する世界の様態にア-トが変化をもたらす。ノイズのない世界システムに、ノイズを生じさせるゲリラ活動としてのア-ト。

 ヨシカワゴエモンは、まさにこのような屈折を含んだ意味においてエコロジーに接近している。単純な自然保護の訴えではないのだろう。対象の本質を直感して要約することに根差したパロディ-とちがって、昆虫や爬虫類、両生類をひたすら再現し、そのことによって、オリジナルとはちがった意味と現実を生み出していくからである。

 ヨシカワゴエモンの人間的にカリカチュアライズされた身体を持ったワニやイグアナが、次々と壁から出てくるのをみていると、ふとこう思う。ハビツツゥス、つまり生活の中で体に染み付いた感覚・能力・習慣・技術を欠落させ、自ら情報となりつつある私たち人間は、人間には処理しきれない量の「情報が一元的、絶対的に世界を支配しようとする圧力を前に萎縮している。このスポンジオブジェは、「いやいや、もっと調和的な自然の摂理や身体性があるぞ

 と異議申し立てをしたいのかもしれない。





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